永遠の運命

只生きていた。

言葉が人を傷つけ、言葉が人を救う。

言葉を紡げないその人の代わりに

私はたくさんの言葉を紡いだ。

苦しみや悲しみ

喜びや嬉しさ。

怒りや憤り。

絶望や困惑。

 

その渦のなかで、自分を表現できないその人の代わりに

私はたくさんの想いの渦を私の言葉で紡いだ。

 

それは苦しい戦いだった。 出力されるのは イエスかノー

私は無限に広がる可能性の粒からその言葉の本流を見出そうと必死にもがいた。

聞こえてくる「くるしい」という言葉を手がかりにして必死にもがき続けた。

 

質問は無意味。 なぜなら言葉の術を持たないから。

わからない ちがう。 たぶんそう。そうかもしれない。

帰ってくるのは曖昧な返答。それに対して私は

できうる限りの優しさを持って言葉を紡いだ。

 

けれど、ありがとうと言う言葉は、あまり聞いたことがなかった。

 

好意を告げる、それに何のレスポンスもないことへの不安。

それに対してわたしはその説明をしなければいけない苦痛。

 

いずれその関係は自分を蝕み。自分の感情を蝕み。自分の心を蝕んだ。

 

私が上手くやれないから、あの人は苦しむんじゃないだろうか。

あの人が苦しんでいるのは、私のせいではないだろうか、、

私が居るから、あの人は救われないんじゃないだろうか。。

 

そんなことを、思い始めた。

苦しみ。

単純に言えば。 人の心がわからない人と関わるとろくなことがない。

という話。成長すればわかるように成るとか思っていた私が甘かった。

いつまで経ってもあの人の目に宿るのは指に心に宿るのは。

「自分以外のすべての人間が悪い。自分は悪くない。自分は罪のない無垢な存在だ」

という表情。生きながらにしてよくもまああそこまで図太く人を踏みにじりながら

自分の美しさという毒で他者を否定できるものだ。その弱さが他人を押しつぶした事などなかったことのように、まるで 「相手が勝手に自滅したのだから私は悪くない、関わってきた相手が悪いのだ。」とでも言いたげなあの眼。反吐が出る。

自分が望んだ事も、求めたことも、人を振り回し、自分の常識のものさしがどう、他者を傷つけるか理解しようともせず、人に言われたことも想像すらせず「私が理解できないのだから、他人の発言は意味も価値もない、糞のような汚物といっしょ」という感情を自分の中に隠し持ち。

私は弱いのだから、他者は私を救って当然。もしくは

わからないのだから、私は悪くない。というその一点に集約されるような

反吐の出る弱さの主張を永遠に続けているのだろう。

 

想像力のなさが、相手をいかに傷つけてきたか。

それを反省しない人間は、自分のエゴに塗れた汚物のような生き様を他人に塗りつけながら ワタシハワルクナイ という言葉を永遠に繰り返し続けるのだろう。

弱いことの罪。

弱いことは罪であり罰である。

それを自覚して、人を慮る心持っていればその人は良い人だろう。

人を大切に出来る。心優しい人。

しかし、人を慮る心が無く、人を理解出来ないことを当たり前のように享受し

他者を踏みつけにし続けるなら、それは悪魔と言えよう。

 

魔性の牙で他人を毒牙にかけて、ゆっくりと身体の中から溶かしていく。魔物。

 

人の世界で人のふりをしている。悪魔のような人。

 

しかしその見た目は美しく、だれもが心と頭を奪われてしまう。

本性なんて考えもしない。その呪いに毒されて 本質を見失ってしまう。。

 

その足元に無数に転がる死体に気づくこともなく。

ただただ 地に付して頭を垂れるのだ。あなたは綺麗で一生懸命に生きているのね。

と。

 

その生き様が多くの死体から吸い取った血液でできている

おぞましい生だと知りもせずに。

はじまり。

始まりは単純だった、心の寂しい二人が出会い恋に落ちる。

いつの世だっていつの世界だってそれは必定。常にある良く在るはなし。定め。

運命なんてロマンチックな言葉で語る気はサラサラないけれど、強いて言うならあれはそう、起こるべくして起こった事故のようなものだった。

人に救われたくて、人を理解しようと努力し続けた人間と、

人が理解できなくて、自分の言葉を上手く紡げない人間が出会ってしまった。

これは不幸な事故、もしそうなら私の苦しみを精算してほしいという願いは

不当な請求なのかもしれない。過払い金は戻ってくるなんてCMを昔良くみた気がする。あれと同じ。でも私はなにも貸してない。私は無性で与え続けた。

今思えばそれが間違っていたのかもしれないけれど、あの時の私にはそれを間違いと思えるだけの自尊心が足りなかった。ひどく。他者へ尽くす事や奉仕することが正しいと思いこんでいたのだ。

 

しかしそれは間違い。私は自分の身を投げ売って そう 文字通り 投げ売りにするようにぞんざいに扱って あの人へ奉仕した。もちろん、私だって色々と求めたが、私のは相手への奉仕を前提にした要求。 言い直すなら、関係性のなかで相手への気遣いを前提にしたおねがいや 求め。 なんの強制力もない。

 

あの人は自分が美しいと知っていた。傷つくことで人が見てくれる事も知っていた。

また、人を捉える蜘蛛の巣のような生き方も知っていた。私がそれに気づかなかった。

私はまたたく間に蜘蛛の巣に囚われ 生きながらに飼い殺しにされた。

しかし知っているだろうか。

蜘蛛のメスは蜘蛛のオスをくらい尽くす。 それは生きるための手段なのだろう。

けれど、人がそれをやっては 人ではなくなってしまう。

あの人は 人の革をかぶり、弱者の革をかぶったなにかだったのだと、いまでも良く思う。 弱みをみせれば漬け込まれる。じぶんの呪いを武器にする。まるでモンスター。

 

恐ろしい人だった。美しい人だった。

けれど、弱い人だった。でも同時に、強い人だった。

その上無知な人だった。そして人に賢く見せることに長けていた。

理解していないことを表現しない事に長けていた。

理解しているふりを重ねて生きていた。

 

私は蜘蛛に捕食されて 死に至ったが 周りは私を罵り あの人を守った。

誰も私の心の苦しみには気づかずに。

ああ。

なんだろうか。そうだな、プロット、とでもしておこうか。

いつか誰かにパクられて 悲しい思いをするのだろうか。

人生とはなぜこんなにも儚く。生きる価値を破壊していく出来事で溢れているのだろう。

誰かの当然は 誰かの非常識で 永久にそれに埋もれて 窒息しそうになりながら生きていくしかないなんて まるで、無邪気に潰される蟻のような人生で。

ひどく身体が散り散りになるように痛む。いや、心か、、でもどちらでも同じ。

私は永遠に切り刻みつづけられ、そして永遠に踏みにじられるのだろう。

一言の ごめん が一切与えられないこの身は 朽ち果て消えるまで その痛みを抱え続けるのだろう。

トラウマと言う言葉がある。 もともとPTSDは戦争から帰ってきた兵士の心的外傷が大きく取り沙汰されて 世に知れることになったらしい

なればこそ、人がこの永遠にもにた一瞬を過ごす中で生じる痛みはまるで銃弾に死してなお何度も撃ち抜かれるような心の痛みを伴うのなら、

私のこの心の苦しみは 虐殺された子羊の痛みなのだろうか。

 

永久に続く虐殺行為、しかしそれを 蟻を踏み潰す子供は知りはしない。

そこに罪はあるのだろうか、そして罰はあるのだろうか。

 

周りは言う 蟻であっても噛み付けば殺されても仕方がないと。

 

しかし私はあえていう。 アリを踏みにじった人間には何の罰もないのですか、と。